明智光秀=天海説の理由は?本当に光秀なの?

歴史

こんにちは*

大河ドラマ『麒麟がくる』が最終回を迎えてから、心がそこに留まっています。

HPで役者さんたちのインタビューを見て、さらに切ない気持ちになったり。
これがロスというものでしょうか。
桔梗の花

さて、『麒麟がくる』では光秀が山崎の戦いで討たれず、生存した説が採用されていました。

これは史実として薄い線とされており、大河ドラマでもはっきり言及されていませんでした。
見ている人たちの想像に任せた最後だったといえるでしょう。

ただし、いくつかの伏線により、多くの人が「光秀=天海」説が採用されたとSNS等で話題になっていました。

今回は、明智光秀=天海説についてご紹介します。

明智光秀=天海説とは?

天海の像
明智光秀=天海説とは、「明智光秀が織田信長を討ち果たした本能寺の変後に死んでおらず、江戸時代初期に家康の重臣として活躍した天海と同一人物である」という説です。

天海はたいそう長生きをした僧であり、寿命は100歳を超えていたそう。

天海の前半生がはっきりしておらず、天海についてはっきりしているのは無量寿寺北院にきてから。
浅草寺の資料によると、徳川家康の北条攻めのときには陣幕にいたとされているそうです。

前半生がはっきりしないので、明智光秀なのでは!?という話ができあがったのだとか。

ただし、歴史学者でこの説を指示している人がいないことや、光秀=天海の場合116歳まで生きたことになってしまうことから、フィクションの可能性が高いようです。

天海説が流れた理由は?

明智光秀の像
では、なぜ天海説が流れたのでしょうか。
いくつかの理由があるのでご紹介します。

日光東照宮に明智平という地名がある

明智平
明智平は日光で1番見晴らしがよいとされる絶景スポット。
なんと天海がここの命名をしたのだそうです!

家光の乳母が春日局である

着物姿の女性春日局は、明智光秀の重臣である斎藤利三の娘です。
謀反を起こした人間の娘を大切な息子、しかも将軍になる人物の乳母にするでしょうか。

光秀の孫(織田昌澄)の助命

光秀の孫は大坂の陣のときに豊臣方で戦いました。
しかし、大坂の陣のあとに助命されているのです!

光秀の名前で寄進された灯籠

灯籠
比叡山には光秀の名前で寄進された灯籠があります。
しかし、灯篭の寄進日が本能寺の変の後なのだとか!

天海説で間違って認識されているもの

以前から天海説の理由づけされていたもののなかには、間違って認識されているものがあります。

日光東照宮に桔梗紋の家紋がある?

桔梗紋
日光東照宮にはいくつか桔梗紋に似た家紋柄があります。
しかし、よく見てみるとそれは桔梗紋ではなく、「木瓜紋」や家紋ではなくただの装飾だったりするそうです。

光秀と天海の筆跡が似ている?

筆
たしかに似ている筆跡もあるそうですが、テレビ番組で同一人物の筆跡ではないと鑑定されました。
筆跡自体がとても似ていることから、近親者ではないかともいわれています。

明智光秀=天海説はロマンがあり、多くの人がそうであってほしいと願って作られた可能性が高いですね。

とはいえ、真実は闇のなか。

歴史のロマンを信じてみるのもいいかもしれませんね!

お読みいただき、ありがとうございました。

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